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ツネミばあばの生い立ち

生け花

私が、生け花やお花は大好きなのに、あまりお金をかけないのは、おそらく私の生い立ちにあると思います。

私の家はひどく貧乏でした。それは、今の若い子たちでは、想像できないくらいの生活だったと思います。

記憶にあまりありませんが、元々はそれほど貧しくはなかったようです。と言うのも、私の家族は戦時中、家も土地も全部親戚にあげて、台湾へと一家で移り住みました。台湾では、大きな家でお手伝いさんもいて、部屋いっぱい大きなひな人形も飾ってくれた、そんなかすかな記憶が残っています。

しかし、ご存知のように、日本が負けて、日本人は台湾から引き揚げることになりました。当時私は、2~3歳だったようです。引き揚げることになったとき、一切の家財はおいていくように命じられたそうです。お金も着物も僅かしか持って帰ってはいけないと。

私の父も母もとても正直者でした。ですから、役人に言われた通り、ほとんどすべての物を台湾人に譲り、引き揚げ船に乗ったとのことでした。しかし、実際船に乗ってみたら、周りの人はみんな、着物の裏側や襟元など見えないところに、お金を隠し持ち帰ってきていたと後に母に聞きました。

当時、私の家族は、父母、祖母、兄二人の6人家族でした。引き揚げてきて、元住んでいた場所に戻ったものの、当然もう家は人手に渡っていて、親戚といえど自分達の生活で手一杯で、私達の家族の面倒まで見てくれる人は当然いませんでした。敗戦のゴタゴタでどうしようもなかったのです。お金も着物もわずかしか持っていない私の家族は、それはそれは大変だったようです。

やっとのことで、私達一家は、長屋の一部屋を借りることが出来ました。今でいうと1DKです。そこで家族6人。布団も何もない所で、なけなしのお金で調達しました。布団を置くスペースさえないので、起用だった父と兄が、昼間は布団を天井の方に引き上げておけるような棚板を作りました。

父は材木工場で働き始めました。母もじゅうたん工場で働きました。一番上の兄は、私より一回り上だったので、もっぱら家の事、子供の事は兄がしてくれました。祖母は元々お嬢様育ちだったせいか、そういった貧乏生活に耐えきれずに体調を崩しほとんど寝込んでいました。死ぬ直前に、「梨が食べたい」とわがままを言い、なけなしのお金を出して母が買ってきましたが、祖母はそれを食べることなく亡くなりました。

それから家族5人、貧しさに変わりはありませんでしたが、何とかその日の暮らしは出来ていました。お風呂もなくトイレも共同だったその古い長屋に、器用だった父がお風呂を作りました。トイレも作ってくれ、やっと夜のトイレに一人で行くことが出来ました。

父も母も仕事でいない昼間、近所のおばあさんがよく遊んでくれました。編み物や裁縫を教えてくれたり、お手玉やおはじき、花札で遊んでくれたり、私が手芸や家の事が好きなのは、そのおばあさんのお蔭かもしれません。私の家は、お金もないし遊び道具のなかったので、同年代の友達と遊ぶよりは、そのおばあさんと遊ぶ方がよっぽどたのしかったのです。

また2番目の兄とは、よく喧嘩もしましたが、二人でウサギを育て、”おじさん”に買ってもらって小遣い稼ぎをしたりもしました。今思うと、おの”おじさん”と言うのは、かなり怪しかったと思いますが。いつも二人で、ウサギのえさになる「オオバコ」という草をかごいっぱい取りに行きました。毎日毎日。そして、ウサギが売れたときにもらったわずかなお金で、ふたりでいつも「するめ」を買いました。そのするめを七輪で焼いて食べたときの美味しさと言ったら!!しかし子供の事です。二人で分けると言っても、「こっちが大きい」とか「こっちが小さい」とかで喧嘩をして、ある時、焼いて熱々のするめが私の顔に触り、やけどしたこともありましたね。

そんな貧乏生活にも慣れてきたころ、私は小学生になりました。小学校にはいるのに、ランドセルなど買えるはずもありません。まあ当時は、ランドセルで来ている子供も少なかったですし、それほど欲しいとは思いませんでした。私の母は裁縫が得意でしたから、古い帆布をほどいて、肩掛けの白い学生風鞄を作ってくれました。私はそれが嬉しかったのですが、とても貧乏くさかったでしょうね。

小学校の時、ある事件が起きました。家庭科で浴衣を縫うというので、家から生地を持ってくるように言われました。当然うちには、そんな新しい浴衣生地なのありませんから、母が古い浴衣をほどいて糊をかけてパリッとさせて持たせてくれました。そうしたら授業中に、ある女の子が、

「つねみちゃん、雑巾縫ってるの?」と大きな声で言いました。

雑巾なんて縫うはずない。みんなで浴衣を縫う練習しているのに。この時ばかりは、悔しくて涙が止まらず浴衣を縫うのをやめてしまいました。こういった貧乏ならではの悲しい体験はたくさんあったような気がします。しかし、貧乏なのはどうしようもないので、前を向くしかありません。雑草は打たれ強いのです。幸いなことに、母は貧乏なりにも愛情はかけてくれました。貧乏=不潔ではいけないと、洗濯は毎日してくれましたし、髪も身体も毎日きれいにしてくれましたし、お弁当も豪華なものはないけれど必ず朝作ってくれた温かいものでした。

そして私が小学5年生のころ、大変なことが起きました。

私が学校から帰ってきて、留守番をしていると、急に近所の人から

「お父さんが病院に運ばれたらか、すぐに行って!!」と言われます。

驚きながら兄と弟と一緒に、日赤に行くと、そこには父がいました。が、「手遅れだった・・・」と。昨日まであんなに元気だったのに。「なんで?」と泣き崩れました。こうして、一家の大黒柱だった大好きな父は、一瞬にして私達家族からいなくなってしまいました。

私はこの日、友達から借りた「若草物語」を読んでいたのですが、この日以降この本を見るのもできなくなりました。今でも若草物語と聞くだけで、この日を思い出します。

実は前日、父は仕事場の材木工場で作業中、材木がお腹に当たったのでした。大きな太い材木だったけど、父は「大丈夫」と言い、仕事を続け次の日も仕事場に行ったのです。でもどうも調子がおかしい・・・と言うことで、病院に運ばれたのですが、内臓破裂で手の施しようもなかったのでした。

あの時すぐに病院に行っていたら・・・何度悔やんでも悔やみきれません。その後、勤めていた材木工場からは、少しばかりのお見舞金をもらっただけ。今であれば労災からの給付があったでしょう。当時ももしかしたら、あったかもれませんが、雇い主も私達家族も無知だったから、そのままになってしましました。

父が亡くなった後は、一家の大黒柱は、一番上の兄になりました。一番上の兄は、定時制高校に通いながら昼間仕事をしてくれ私達の生活を見てくれました。母は、弟がまだ小さかったので、ずっと働きに出ることが出来ず、弟を連れて働きに行ける近所の工場と内職をしていました。

とまあ、私の貧乏な話を書き出すと、止まらなくなるので、この続きはまた追々書きたいと思いますが、何が言いたかったかと言うと、私の中にはお金のなかった子供時代の記憶が染みついていて、「何かあったら」とか「いつか使うかも」「もったいない」という発想ばかりです。

それは、大人になったから変わるものではなく、それは生け花にも私の大好きな手芸にも大いに影響を与えています。

お金を使ったら、誰でもキレイな花は生けられる。

お金を使わなくても、キレイな花を生けることこそ、生け花だ。

私はそう思っています。でも身近なお花を使うだけで、お花を飾るだけで、家の中は明るくなるものです。ですから、もっと気楽にみなさんに生け花に親しんでもらえると嬉しいなと思うのです。

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